てめえで、自分を大事にしなくて、誰が大事にするもんか~映画 「異人たちとの夏」
幼少期に亡くした両親と、中年になった主人公が再会、交流、別れる物語。
別れ際の両親に主人公が、
交流時の良い関係を振り返るが
両親が長生きしていたら、親孝行したかどうかなんてわからない、
と嘆いたあと、父親のセリフ。
自分だけは自分を大事にしてもいいんだと、ほっとなるセリフ。
自分を責めがちな人には金言です。
完全に伝わらないが、伝えようとしている姿勢・気持ちは伝わる ~講演会より
ある講演会にて、
質問で子供に勉強を教えているが、中々伝わらない、
という問いに対し、
以前の記事でも書いたように、所詮はわかりあえるはずがない、と。
続けて、
完全に伝わることはないけども、
あなたが伝えようとしている姿勢・気持ちは伝わるんだよ、と。
文章では言い方などが伝わらないですが、
回答する氏の姿勢・態度、素敵でした。
老人の恋心 ~ドラマ「ながらえば」
老人の恋は、しばしば山田太一氏が掲げるテーマ。
1982年の作品ながら、いつ見ても新鮮さ、重厚さがある。
「老人は恋なんでしないでしょ」、という周囲の思いを裏切って進む、
古女房との恋慕。
ストーリーは各所に秀逸な説明があるのでご参考に。
老人は明日をも知れぬ、
好きな人に会いたい気持ちもある。
おそらく老人ホームで老人を赤子扱いするかのように、
周囲は感じてしまうのだろう(自分も含め)。
でも生々しく、美しい。
このドラマが本当だと、思う。
断念するということ ~書籍「生きるかなしみ」
書籍「生きるかなしみ」に、
可能性を追い続ける社会に対する、
山田太一氏の「断念するということ」という寄稿がある。
全ての人にあてはまるわけではない、
という氏のいつもの素敵な細やかさで前置きしながらも、
あともうひと頑張りすれば、一つ上の学校、職場、医療などを受けられるのに、
頑張らないものは怠け者、変人扱いされてしまう、
というのは少し生きにくいのではないか。
氏のドラマや小説にもそういった人物は出てくる。
医療を受けず死を迎えようとする「早春スケッチブック」の沢田(山崎努)、
友人と引き抜きの可能性があっても、積極的に断念する「ふぞろいの林檎たち 2」の実(柳沢慎吾)、
など。
若者の田舎暮らしなどが認知されてきた現在ではあるが、
競争に乗らないものへ、社会はなんとなく厳しい。
また「やればできる」など、努力の甲斐なく一つ上に行けないものに対するものへも、
社会はやはり厳しい。
ひいてはいじめや自殺の問題とも絡んでしまう。
そういった可能性を追い続けることへの生きづらさを、
氏は示している。
中々そうはいかないが、「断念」してもいいと認めてくれる人がいること、
支えになるんでは。
ピッツァ ~ ドラマ「ありふれた奇跡」
2009年から放映された連続ドラマ。
楽しみにしていた山田太一ファン、相当数いたでしょう。
ドラマはかなり上質で、見返すたびに心地よい。
自殺にスポットを当てている点、
大災害の一方で年間3万人の人が自殺をしている、とおっしゃっていたこともあり、
自殺に対する問題意識も高い状態だったのだと思います。
とはいえ、ドラマ初回でまず耳に付いたのは「ピッツァ食べた?」。
ピッツァ?
私のような庶民では、日常会話で発したことのない言葉です。
ピザでしょ。ピザーラ、ドミノピザ、ピザハット、、みんな「ピザ」。
裕福そうな家庭だったのであえてそうしたのか、狙いなのかはわかりません。
どんな偉人でも細部で大衆感覚とのずれが出るのは仕方がないですね。
それに違和感を覚えずに観ていた人もいるのではないかとも思います。
こんな可愛らしいセリフも素敵です。
ドラマの大筋に影響を与えるものではないです。
「世間には、お前にも俺にも、深い関心を持っている人間なんていない」 ~親ができるのは「ほんの少しばかり」のこと
山田太一さんが父親に口癖のように言われていた言葉ということ。
少年期に浴びる言葉としては相当厳しいものだと思うが、
山田作品の根底にあるものだと思う。
ある講演会では、「所詮他人は理解できっこない」という旨の発言もしているし、
インタビュー等でも同様の趣旨の発言は見て取れます。
ただし、決して悲観的ではない。
そうだからこそ、人間は生きていけるんだと。
人間、自分がかわいいから、他人にそうそうかまっていられない。
でも自分以外、誰が一番自分を大事にしてくれるのか。
(映画:異人たちとの夏 でも同様の発言)
他人に完全に理解してもらえるわけではない。
でも理解してもらいたい、理解したい、という行動、言動、感情は、
他人にも伝わるし、他人からも感じ取れる。
たぶん、それぐらいで人間ちょうどいいんだよ、という肯定なんでしょうね。
「空也上人がいた」の執筆エピソードでも、
空也上人像のようにくたびれた顔して隣に寄り添ってくれるくらいがちょうどいい、
とおっしゃっています。
完全理解しあえなくても、寄り添って生きていくことが、
普通なんだよ、と自分は理解してます。
「大学どこ?」 ~ふぞろいの林檎たち
発する人、場面、声色などによって、捉え方が違う言葉です。
ドラマ「ふぞろいの林檎たち」では、主人公の一人、仲手川良雄(中井貴一)が、有名大学同士のコンパに紛れ込み、見つかり、問い詰められる場面に使われます。
このあとに続く、他の有名大学生の、「聞くなよ」という嘲笑。
苦笑いの仲手川。
このほんの数秒で、
日本の学歴社会の暗部を視聴者に実に的確に表現している。
優位にあると認めながら、腫れものに触るまいという有名大学生、
優位者の前では卑屈になり、避けるような仲手川。
人間自分に優位性がある場面で、
有名大学生の気分が0%ではありえないと思う。
原罪のようなものだから、怖いけれど、
普段からそんな場面ならこうすべきだ、を考えなければと感じてしまいます。